歌謡歌手坂越達明
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坂越達明の横顔
初代浜田喜一師の二尺一寸の声でに開眼
海道はじめの名でロック歌謡もレコーディング
三隅 咋年コロムビアレコードから発売された「幻の名盤開放歌集」というCDの中に坂越さんの『スナッキーで踊ろう』という曲が入っていますね。ジャケット写真を見ると、当時のアイドル歌手三人を後ろに従えて、さっそうとチュックのネクタイをなびかせている坂越さんの姿が正面にありますが、現在の坂越さんしか知らない人は「エ一エ!」と驚くでしょうね。
坂越 そうですね(笑い)。“幻の名盤”ということで、マニアの間で流行しているようです。昭和四十二年のレコーディングでしたが、三人のアイドルは吉沢京子さん、小山ルミさん、風吹ジュンさんで、スナッキーガールズという呼び名でした。実はプリマハムが「スナッキー」という製品を出していて、要するにコマーシャルソングでない形でレコード会社が「スナッキー」という製品に結びつけていたんですね。そうでないとコマーシャルソング的なものは、当時は作れなかったらしいんです。
今はレコード会社とタイアップしてやっていますが、それのはしりだったようです。

三隅 その時のお名前は、坂越達明じゃなく、「海道はじめ」となっていますね。
坂越 作曲家の船村徹先生が名付け親で、私が清水生まれだから、“東海道一をもじって、一を「はじめ」としたんです。
三隅 街道一の親分になれということで(笑い)。
坂越 コロムビアにいた約四年間は「海道はじめ」でやってましたが、名前には愛着がありますね。
三隅 坂越さんのデビューはコロムビアですか。
坂越 最初は初代浜田喜一先生がキングに紹介して下さったんですが、船村先生に預けられた関係で、歌謡曲でデビューを。当時は二十一、二歳でしたから、浜田先生が「まだ若いんだから、少し歌謡曲や洋楽の勉強をしてみたら」と言って下さって船村先生の所へ。そこで演歌や流行歌的な曲を勉強したんです。
三隅 演歌歌手として売り出すことについて、ご自身としてはどうだったんですか。
坂越 演歌といっても民謡調でいくのではないかと思っていたんです。ところが、出来た曲が「スナッキー」というロック歌謡で。約一年後に本格的な演歌のレコードも出したんですが、私は民謡に戻りたくて、いつ浜田先生のところに戻ろうかと、そればかり。それで第二弾の演歌を出して二ヵ月くらいたった時、船村先生に「いろいろやっていただいたけれど、民謡に戻りたい」と話したんです。それで浜田先生の所へ戻ってずっと民謡をやってきました。
 
三隅 子供のころから民謡が好きだったんですか。
坂越 十一歳ころから民謡をやっていたんですよ。父がやっていたので、“門前の小僧”で。私の生まれた清水市はミカンとお茶の産地ですし、大きな会社もあるので、東北から出かせぎに来る人も多く、民謡はかなり歌われてたんです。でも当時は稽古場がなかった。ある時父が民謡を教えてくれる先生をみつけて習い始めたんですが、その先生が私に「どうせ聴いているんなら、子供の時からやってみなさい」と。それから民謡の世界へ入って。
三隅 初めから興昧を感じましたか。
坂越 子供でしたから、それほど面白いとは思いませんでしたが、田舎の温泉というか、お年寄りの集まる風呂屋に行くと、よく歌わされて、おばあちゃん達から紙に包んだ“花”をずいぶんもらったんですよ。それが軽く子供の一、二年分のおこづかいくらいになって・・・唄を歌うとお金がもらえるなんて、歌手っていいなあと、子供心に思いました(笑い)。
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神様のように思っていた初代浜田喜一に弟子入りして
三隅 初代浜田喜一先生に弟子入りすることになったのは?
坂越 NHKのど自慢の全国大会に出場し高校二年の時「箱根馬子唄」で三位に入賞したんですが、日本民謡協会初代理事長の青木好月先生とご縁ができたので、その後「東京で民謡を習いたい」と訪ねて行ったんです。そうしたら「一番いい師匠がいるぞ」と浜田先生を紹介して下さって。田舎にいた時は、浜田先生の唄をラジオで聴き、“こういう先生の所で勉強できたら”という気持ちを持ってましたが、神様のように思ってましたから、まさか紹介してもらえるなんて思ってもみませんでした。
三隅 青木先生が「これはいい青年だから」という肩入れがあったんですね。
坂越 恵まれていました。青木先生が「今日は稽古日だから行ってみるか」と、さっそく神田神保町の追分道場へ連れていって下さって、そこで初めて浜田先生に会いました。先生は当時四十二歳で、追分道場では『江差追分』だけ教えていました。
ある時先生が「家の方に来なさい」とおっしゃったので、さぞかしすごい豪邸だろうと訪ねたら、ふぐ料理屋さんの二階の六畳一間に先生が一人ポツンといらっしゃった。「よく来たな」とおっしゃって、いきなり「飯を食ってきたか」とたずねられたので「まだ食べていません」と答えたら、「じゃあ、下へ食べに行こう」と、ふぐ料理屋さんへ行ってポケットからクシャクシャの千円札を出し、店の人に「これで食べられるだけ出してくれないか」と言ったんです。あれは生涯忘れられません。今でこそ民謡歌手は楽をしていますが、当時の先生を見て“民謡というのは食えない芸なんだな”と思いましたよ。
やがてブームがこようとは夢にも思いませんでしたね。
三隅 初代浜田喜一という人は、食えなくても大らかで、大家の風貌といったようなものがありましたね。
 
坂越 私たちは弟子でありながら、しょっちゅう小遺いをもらいましたよ。神田道場のお弟子さんは十二名くらいで、月謝は八百円。先生はちょっと胸が悪く、病院通いしていましたし、内弟子に入っても生活は厳しかったですね。ブームに乗ってからは一変しましたが。
三隅 そういう時期にお稽古されただけに民謡の厳しさも昧わったわけですね。
坂越 もう生涯あんな厳しい先生には会えないだろうと思います。稽古を受けていても、何も言わないのでいいのか悪いのか分からない。稽古時間はせいぜい五分から十分ですが、「そこは、こういうふうにしたら」と言われるくらいで、「分かりました」と言って、次のお稽古までに勉強しておくんです。年配の方には丁寧に教えられましたが、若手に対しては、“自分でどんどんやってこい”といったところがありました。
三隅 今の『江差追分』は楽符を外れると減点されるという、ちょっと硬直状態にあるのではという批判もあるんですが、その点からいえば、教え方は個人の個性を重んじていたんじゃないでしょうか。
坂越 「譜面ができてしまったために声までも作って、節回しも寸分の違いなく歌おうとするようになり、個人の持ち味や江差追分の面白さが薄れてしまった」と、先生はいつも言ってました。「譜面通りにすると、追分を本当に楽しんで歌う部分がない」と。青坂満さんが「最初は譜面通りに歌ったけれど、今は個性を大事にしている」とおっしゃったのを聞き、先生もそういうことを言いたかったのだなと思いました。
三隅 追分以外に教わったものは?
坂越 追分だけ習っていた時「お前は将来どういう歌い手になりたいのか」と聞かれました。私は中部地方(静岡県)出身ですから、東北のなまりやアクセントは苦手だったんですが、「これから民謡を歌っていくなら、オールマイティーに歌えるように勉強していかなければだめだぞ」とアドバイスしてくれました。
三隅 船村徹さんに預けたのも、プロ歌手として幅を持たせようということだったんでしょう。
坂越 先生は民謡だから素唄でとか、無伴奏でという考えじゃなく、「洋楽の伴奏で歌ったらもっと普及していく時代がくる」とも言ってました。
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民謡を通して自分自身の音楽を築きたい
坂越 ある時、二階で一人で稽古していたら、奥さんが帰ってきて「あら、先生だと思ったよ」と言われたんですが、節だけじゃなく声まで先生のまねをしてた部分がありました。
三隅 器用なんですね。
坂越 コロムビアを辞めてから、ビクターのオーディションを受けたらディレクターに「初代浜田喜一は二人いらない」と言われて、あっさり落ちちゃったんです。(笑い)。あまり尊敬しすぎて、勉強すればするほど先生に近くなって・・・。
三隅 初代浜田喜一にとりつかれていた(笑い)。
坂越 先生に「ぼくの唄はどうなんでしょう」と聞いたことがあったんですが、一言で「だめだな」と言われて、一瞬耳を疑いました。先生の代稽古にあちこち行かされてたので、ある面では天狗になっていたんです。だめと言われた時には、初めて先生に不信感を持ち、民謡を辞めようかとも思いました。「じゃあ、ぼくはどうしたらいいんですか」と聞いたら「二尺一寸の声で追分の“荒い波風もとより覚悟”という二節を半年間勉強してこい」と言われたんです。先生が何を言わんとしてるのか分からなくて“なんで今さらそんなことを”という気持ちで家に帰りました。冷静に考えて、先生が何かを教えようとしているのかなあと思って、やるだけやってみようという気持ちになりましたが、ちょっと頭にきていたので、半年間一度も連絡を取らなかったんです。その間は私が代稽古に行かないから、先生が稽古に行ってたんですよ(笑い)。先生が言わんとするのは何だろうと、そればかり考えながら稽古するうちに、ハッと気がついたことがあって「ここをこう直したらどうかな」と。やがて半年経って、先生に「“荒い波風”を聴いて下さい」と言って、二尺一寸で歌ったら、その時初めて「お前、民謡が分かったな」と言って下さったんです。それまではすごく高い声で、追分を一尺七寸くらいで歌っていて、声が細かったので、すぐに裏声を使ったりしてたんですね。二尺一寸だと低すぎて声が出なくて苦労しました。こんな厳しい先生はいないと思いましたが、先生も「お前はもうオレの所へ戻ってこないと思ったよ」と言ってました(笑い)。
三隅 それで開眼したんですね。
坂越 そうですね。昭和六十年に、先生に見てもらおうと思って、江差追分をテーマにした作品を芸術祭参加作品として出したんですが、先生はそれを見ずに亡くなってしまったので、非常に残念です。
三隅 坂越さんは馬子唄を集めて、民謡の原点を求めるようなこだわりを見せながら、新しい世界を開いていこうという野心的なお考えもあるようですが。
 
坂越 私は浜田先生に芸人的なものすごい民謡を見ることができましたが、一方で静岡の『茶もみの唄』とか『茶摘みの唄』のような、作業をしながら自然に口ずさんできたような民謡にも魅力を感じるんです。舞台に立ってプロとして歌う時は、技術的なこと、声の張り方などに神経を使うわけですが、ある面ではそういったことに疲れを感じるんです。作業しながら歌った唄は、何も神経を使わずに自分の好きなメロディーを口ずさめる。もっと民謡も無伴奏でポンと歌えるようにしたいんです。お弟子さんも大勢ついてきて下さるけれど、教えている私たちが民謡をむずかしくしてしまっていると思うので、反省しなければならない時がきているのではと思うんです。民謡は本来、大衆的なものだから、むずかしいワクをとって、本当に素直な気持ちで誰でも歌えるようにしたい。私自身も芸能者として生きていくのか、それとも民謡の原点を主体としていくのか、はっきりした結論が出せずに迷っている都分があります。
三隅 最後に今後のご計画は?
坂越 今、すごく魅力を感じているのは、ポルトガルのパドという音楽ですが、ギター一本で日本の民謡と同じ発声をしながら歌っている。そういうものもやってみたいと思っています。自分が四十年間やってきた民謡を通して、自分自身の音楽というものを築いていきたいという気持ちがあるんです。ここ五、六年はそういう音楽づくりをやっていきたいと思っています。
三隅 大いに期待しています。がんばって下さい。
みんよう文化2月号 平成6年2月1日発行
  産経新聞社
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